五箇山

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五箇谷間

五箇山(ごかやま)は、富山県の南西端にある南砺市の旧平村・旧上平村・旧利賀村を合わせた地域を指しています。
赤尾谷・上梨谷・下梨谷・小谷・利賀谷の5つの谷からなるので「五箇谷間」となり、これが転じて「五箇山」の地名となっています。

歴史

歴史では平家の落人が住み着いたと伝えられています。
1183年、富山県と石川県の県境にある倶利伽羅峠で、木曾義仲(源義仲)と平維盛(平清盛の孫)が戦ったいました。
この時、義仲は火牛の戦法で平家に大勝した。
その残党が五箇山へ落人として逃げ隠れたとされています。
一部の五箇山の民家の家紋として残っているといわれます。

五箇山誌

南北朝内乱期に、吉野朝遺臣によって地域文化が形成されたとも伝えられており、『五箇山誌』(1958年)には「五箇山の文化は吉野朝武士の入籠によって開拓され、五箇山の有史は吉野朝からです。
養蚕・和紙製紙は吉野朝遺臣によって始められ、五箇山へ仏教が入って来たのは後醍醐天皇第八皇子、天台座主宗良親王によってという説もあります。

茅葺

五箇山の合掌造りの屋根は茅葺で五箇山の茅葺はコガヤ(チガヤ)を材料とすることが特徴となっています。
なお、現在はチガヤの採取量が全ての合掌造りに必要な分を満たせず、重要文化財や世界遺産を除く合掌造りは大茅(ススキ)で屋根が葺かれている家屋があります。
昭和30年代までは「結」、集落の共同作業にて葺き替えを行っていいましたが、現在は富山県西部森林組合(旧五箇山森林組合)が屋根の葺き替え、茅場の管理・刈取りを行っています。

豪雪地帯

この地域は世界的にみても有数の豪雪地帯であり、そのような風土から傾斜の急な大きな屋根を持つ合掌造りの家屋が生まれました。
現在も南砺市(旧平村)の相倉地区や同市(旧上平村)の菅沼地区には合掌造りの集落が残っており、それぞれ1970年12月4日、「越中五箇山相倉集落」「越中五箇山菅沼集落」として国の史跡に指定され、1994年には重要伝統的建造物群保存地区として選定されています。

民謡の宝庫

「五箇山は民謡の宝庫」と言われ、発祥や伝播の経緯が定かでないものが数多く存在します。
伝承ではお小夜という遊女と関係が深いといいます。
加賀騒動の首謀者と遊女たちが輪島に流刑になったが、お小夜は輪島の出身だったため、意味がないということで、小原(上平)に流され、歌を教えたとされています。
口頭で伝承され発展してきた文化遺産であり、麦屋踊は、国の助成の措置を講ずべき無形文化財に選定された経過にあります。
現在伝承されている五箇山民謡は、こきりこ(こっきりこ)節・麦屋節・長麦屋節・早麦屋節・小谷麦屋節・古代神・小代神・四つ竹節・といちんさ節・お小夜節・なげ節・五箇山追分節・神楽舞・古大臣・しょっしょ節・草島節・輪島節などがあります。

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所在地マップ

【所在地】富山県南砺市相倉

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